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カテゴリー「書籍・雑誌」の46件の記事

夏休みの読書 「民王」

備忘録的に、読んだ本の感想をちょっと書いておこうかと思いまして・・・。

池井戸潤さんの作品は半澤直樹以来、結構読むようになった割とミーハーな自分ですが、この本は割とばかばかしい設定(総理と馬鹿息子が入れ替わる)で始まりつつ、訳のわからない出来事も交えながら(他にも入れ替わりが発生、そこにCIAの極秘技術も)結構テンポ良く読ませてくれて、しかも場面場面で共感もしてしまう、2〜3時間で読むにはとても良い本だと思いました。池井戸潤さんらしく、読後感もスカッとする、水戸黄門のような小説です。

書評では、「彼等(第1次安倍政権から今に至る全ての総理)が既得権にしがみつき、自分たちのために物事を決めてきたことがよく判る。武藤泰山や翔とは異なり、だ」とありましたが、寧ろ彼等も本当は国をこうしたいという熱い思いがありつつも、しがらみに囚われてなかなか踏み出せないから、初心に返って初志貫徹した方がいいよ!と言っている応援歌のような本だなと自分は感じました。

ドラマとは若干ストーリーも違うようですが、いつものことですが、ドラマより本の方が設定もテンポも良いように感じます。

「江戸参府随行記」を読んで

大変ご無沙汰しております。皆様お元気でしたでしょうか?

さて、今年初めての記事は、昨年より読み続けていて、なかなか読み終わらず、ようやく読み終わった本のご紹介です。

この本は江戸時代、出島の三大学者として名が知られているスウェーデン人の植物学者ツュンベリーが1775年から1776年にかけて、日本に滞在し、長崎の出島から江戸までの参府の往復旅行の紀行記も含め、当時の日本を客観的目線で書いた本です。

この本のスタンスは序文でツュンベリーが自ら下記のように書いているように、

私は日本国民について、あるがままに記述するようつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらにその欠点をあげつらったりはしなかった。その日その日に、私の見聞したことを書き留めた。さらに彼らの家政、言語、統治、宗教等々、いくつかの事柄は後にまとめて記述することにし、一か所でそれらを論じ、折にふれて断片的に記すことは避けた。

といった具合で、変なイデオロギーや立場の違いを組み込まず、まさに「客観的」に当時の日本を描いているように感じ、だからこそ、淡々とした筆致なのですが、その文中に見えてくる色々な人たちが色彩豊かに、活き活きとした姿を見せてくるように感じます。

上記のamazonの中の書評にあるように、ある面では「とにかく日本と日本人を褒めまくってくれてます。」と感じられる部分もあるかもしれませんが、当然批判している部分も多々あります。家屋の構造や暦学、医学、印刷などについてはその後進性をこれまた冷静に指摘しています。

この本の圧巻は自分は、第五章の「日本および日本人」において彼が日本を考察している部分です。

日本の地理的状況と気候
日本人の外見
日本人の国民性
日本語
姓名
衣服
家屋の構造
統治
武器
宗教
食物
飲物
喫煙
祭事の娯楽と催し
学問
法律と警察
医師
農業
日本の自然誌
商業

どれもうならせてくれるし、今の日本人の特性としてあげられているものは、江戸時代より綿々と流れているものであり、またなぜ日本が19世紀後半に突然明治維新で近代化を成し遂げることが出来たのかも教えてくれているように感じました。

印象深かったところを挙げようと思いましたが、下記のページに書かれているので、ショートカットを張っておきます。というか元々は下記のウェブページを読んで「本当にこんな風に書いてあるのかいな」と思って、この本を手に取ったのですが、本当にこういう風に書いてありました!

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/edo_sanpu.htm

上記のページの中で、こちらの管理人さんでいらっしゃるオロモルフさんがおっしゃっている

ツュンベリーにとって印象的だった江戸中期日本人の実態を表すキーワードには、「身分差別がない」「女性が奴隷ではない」「清潔」「正直」「公正」「勤勉」「節約」「巧みな工芸」「商品が豊富」「犯罪の少なさ」などいろいろありますが、「自由」という言葉も頻繁に出てきます。おそらく、来る前に聞いていたことと反対の自由な日本人の姿を見たのでしょう。下層の農民や上役に仕える武士にすら自由がある、と述べています。この点についても、戦後の教育はおかしいです。たとえば二宮尊徳は農民の出ですが、頼まれて武士階級の指導者になっています。オロモルフの曾祖父は旗本でしたが、家系図を見ますと、一家の婚姻相手は、農村・商人・学者などいろいろです。江戸に日本初の私立図書館をつくった小山田与清は、農家の生まれです

との言葉は自分も同感です。どうしても戦後の教育はどこかにマルクス史観が入っており、階級闘争で歴史を語ろうとする余り、無理に「虐げられた農民・庶民」を描こうとしているように感じます。とは言え、今の日本が〜の部分は首肯しかねます。もし今の日本の社会が悪くなったとすれば、それは一にも二にも日本人そのものに原因があります。もっとも、改善点は色々とあるにせよ、今の日本は歴史上希に見る素晴らしく住み心地の良い、安全で豊かな国だと思っていますが。

いずれにせよ、江戸時代の日本を客観的に見ることが出来るだけでも、この本を読む価値は十二分にあると思います。

とても素晴らしい本なのですが、なかなか手に取る機会も持てず、自分も図書館でようやく手にすることが出来ました。もし機会があれば、是非読んで貰いたい本です。素直に日本という国について読むことが出来る、大変素晴らしい本だと思います。

「日本軍と日本兵 米軍報告書は語る」

なかなか自分を客観視するというのは難しいのでしょうが、その中でも特に第二次世界大戦時の日本軍をイデオロギーの影響無くして見るのは大変難しいことです。

それは左の方のようにアジアの民衆に暴虐の限りを尽くしたといった完全なる否定でも、右の方のようにアジアの民のために立ち上がった勇敢な兵士という肯定でもないと思います。

また、それが軍隊としての資質となると、そもそも現代日本は特殊な人たち、すなわち自衛隊に奉職されている人で無ければ、軍事組織と関わらないため極端に描かれがちです。特に陸軍はその傾向が顕著だと思います。曰く、

・死をも恐れぬ勇敢な戦士
・兵隊は世界一優秀だったが、上層部が無能で、硬直したバンザイ突撃しかしなかった
・主力兵器は明治38年制定の三八式歩兵銃
・銃剣突撃が得意
・常に弾薬や食糧や物資が不足していた

みたいなところでしょうか?

ところがこの本は、それは戦後作られた神話だったんだろうなと思わせてくれます。

この本はアメリカ陸軍の広報誌「Intelligence Bulletin」の内容をまとめたもので、毎月戦場レポートや参戦した兵士たちの座談会などを通じて、直接対峙している日本軍とはどのような軍隊かということを紹介しています。イデオロギーとかは一切入れず、相手の書いていることを脚色を加えず書いているのが素晴らしいです。そしてそこに描かれている実像は、今まで思っていたとおりの事もあれば、目からウロコの話もありました。

・日本軍の戦法は包囲殲滅を基本としていた。日本軍は予備隊をほとんど、あるいは全く作らない。 →奉天会戦を始め、日露戦争時からそうだった

・主力兵器は銃剣突撃では無く、機関銃。これを巧妙に配置し、掩蔽し、隘路に追い込んだ敵を殲滅しようとした。防御においても基本的平気であった。

・肉弾戦を好まず、また苦手 →体格差からすればさもありなん

・射撃が下手。特に移動しながらが苦手 →サッカーの日本代表の試合を見ていれば、昔から変わっていないことがわかる

・予定された作戦を遂行するには勇敢な兵士だが、想定外のことが起こるとパニックにすぐ陥る →今の日本人にも充分通じる

・集団になるとよく喋り、その話し声で居場所がわかる →今もそうだ

・日本兵は病気になってもろくな待遇を受けられず、内心不満や病への不安を抱えていた。戦死した者のみを大切に扱うという日本軍の精神的風土が背景にあり、捕虜たちの証言はそれへの怨恨に満ちていた →上の言うことに割合従順だが、無批判では無く、寧ろ多くの不満を抱えているという姿は、どこの企業でも見られること

・どの戦場でも「穴掘り屋」と化して穴を掘り、もしくは洞窟に籠もって抵抗するという戦法で長期戦を試みた。彼らは最初から「玉砕」それ自体を目標としていたわけではない。

・戦争途中から日本軍も火力重視に戦法を改め、米軍の作戦と同じように火力集中→歩兵突入を指向するよになる。

・フィリピン戦以降の日本軍は水際抵抗(撃滅)も安易な「玉砕」も止めて内陸の洞窟に立て籠もるという戦法で抗戦したし、沖縄では過去の戦訓に従って戦法をさらに改善、長期抵抗を目指した。

→さすがに硬直性が強かったとしても、何も考えない訳がない。日本なりの持っている諸条件を勘案した合理的な作戦を採ろうとしていた。

以上のように、別にどの部分を読んでも、きっと今の我々が同じような状況に追い込まれたら、同じようなことをするかもと思える内容ばかりでした。今までの旧日本陸軍に持っていたもやっとしたものが無くなり、「得心がいった」ように思えました。他にも色々と興味深い描写もある(例えば記念品ハンターとなっていた米軍兵士を籠もっていた日本軍将校が見つけ、刀を振り回して追いかけ続けたという描写は状況を想像すると、何となくコミカルでした)ので、もしご興味があればご覧下さい。

「共産主義批判の常識」を読んで

塾長の方の本が続きますが、今度は小泉信三元塾長が記した「共産主義批判の常識」です。

こちらは、戦後日本の論壇も共産主義礼賛が続く中、戦前より経済学者であった小泉元塾長が、比較的平易に当時ソ連で展開されていた共産主義に対して論じた本です。

そもそも共産主義をマルクス・エンゲルスはどのように論じていたのかを述べます。つまりは生産手段が高度に発達し、生産財のコストが極限まで低減すると、資本家は必要利潤を得るため労働者を搾取して賃金を下げる。そうなると社会に矛盾が生じ、やがて労働者階級は立上り、革命は必然的に起こり、プロレタリアート独裁が成し遂げられるといったものです。(端折り過ぎですが)

当然「資本主義が高度に発達した結果」が共産主義なので、マルクス・エンゲルスは革命が生じるのはイギリスなどの当時の経済先進国でした。ところが実際に革命が起こったのは当時西欧からは遅れた国として見られていたロシアであり、その後は中国でした。

この矛盾について、小泉先生はばっさりと論じます。つまり労働者(というか国民)が堪え難い状況となるのは資本主義の発達では無く、戦争であったり各階級層の間での対立であり、この状態を革命家は望み、利用しているのだと。

すなわち、

 共産主義者にとっては共産主義国以外においては、秩序の破壊ということが当然最も大切な本務とならねばならぬ。したがって前に説いた限界生産力の増進による勤労階級の状態改善のごときは、正直のところ、かえって望ましからぬことであろう。生産は上がらず、民衆は現在事象を堪え難しとする状態こそ共産主義者にとっては最も働きやすく、収穫多き状態であろう。
 三十年前ロシヤ革命が起こったとき、ボルシェヴィキの一宣伝者は社会主義革命はどこに起こり得るかとの問に答えて、「それは資本によって造り出された状態が労働者階級にとって堪え難きものとなる処ではいずれの国にも起こり得るし、また起るであろう」といった。  かかる「堪え難き」状態は、しからばどこに造り出されるか。マルクスは資本主義の発達が必然的にそれを造り出すように説いた。しかし先進資本主義国ではどこにもそれは造り出されず、かえって資本主義のはるかに後れた国に、戦争によって造り出された。今後も恐らくは同様であろう。  (中略)戦争が「堪え難き」状態を現出することは間違いなく明白である。敗戦国のことは言うまでもない。戦勝国にとっても、戦争の今後の破壊力を計量すれば、その惨害が、いかなる激烈の恐慌も、いかなる大量の失業もとうてい及び難いほどのものであろうことは、充分に明白である。もしも民衆生活の現実の安寧と福祉とが第一に大切なことであるならば、戦争の惨害はいかにしてでも避けなければならぬ。しかし、もしも革命が至上のものであって、そうして、その唯一の機会はただ戦争によってのみ造り出されるとしたならば、ひそかに最も戦争を願わなければならぬものは革命家だということが、当然の論理となるであろう。ここに自他ともに警戒すべき危険がある。職業的革命家の陥り易い誤謬には職業軍人の陥る誤謬ときわめて相似するものがある。

と論じています。常に社会主義国家であったり左寄りの政党が「闘争の貫徹」といった具合のことを標榜していた理由がわかったような気がします。彼らにとって安寧な状態の社会は望ましいものではなく、「堪え難き」状態の社会情勢を造り出し、そのために自分たちの存在意義があるのだということがわかっているのでしょう。

そうすると中国で胡錦濤前国家主席の掲げていた「和諧社会」とは社会主義諸国では異例のスローガンですね。闘争ではなくバランスの取れた社会と言うことですから。ただ中国には古来間違いなくそういった思想があります。聖王舜と禹の時代を理想としていましたから。こういったところを深く洞察しながら向こうの要人と日本の政治家なり外交官が語り合えれば、また違った風景が描かれそうなものですが。

なお、小泉先生が戦後直後の状況で語った

「いわゆる資本主義の矛盾なるものは、結局生産物に対する有効需要の不足ということに帰着するであろうが、生産力の高度の発達さえあるならば、国家の介入その他によって有効需要を造り出すことには、恐らく幾らも方法が考えられるであろう。」

は、それから60年ほど経った我が国で似通った状況が作り出されました。すなわち政府がどんどん公共投資や補助金をばらまき、国家財政が膨大な赤字を抱え込むようになって尚、有効需要が不足し、デフレ状態となったここ最近の日本です。まさに歴史のアイロニー(皮肉)ではないでしょうか。

この大きな要因に、自分は人口構成の変化があると思っていますが、それはまた違う機会で。

とにかく今の各国のスタンス、各政党のスタンスを想起しながらこの本を読むと、本質は何も変化していないなあと思わされます。さすがの洞察力だなあと思った次第です。

「禍福はあざなえる縄のごとし」を読んで

1977年から1993年まで慶應義塾塾長を務められた石川忠雄元塾長が記された自叙伝です。中国を研究されていたとは何となく知っていましたが、現代中国だったことをこの前知り、ちょっと興味があったので読んでみました。

読んで感じたことが、共感することが多々あると言うこと。考えてみれば自分も1985年から1995年まで在塾していたので、多くの時間が石川塾長時代だったわけで、知らないうちにそういった空気を感じていたのかも知れません。

柔らかいソフトな印象を持っていたのですが、実際には御尊父が旗本から鳶職に養子に出され、そのまま鳶の頭として活躍され、ご本人も夜学に通い、学徒出陣で飛行機乗りとなりと、剛胆な歩みをされていたんですね。また中国研究でも、時代の流れに阿ること無く、冷静に見つめる視線が感じられました。

印象に残った部分を引用すると

 赤いめがねをかけると物事は赤く見える。透明なめがねをかけて物事を見なければ正確に認識できない。少なくともマスコミに身をおく人は、すべて透明なめがねをかけて物事を見てほしいと私は願っている。マスコミが色メガネをつけた個人の見解で一方的な情報を載せるのはあまりにも不適切である。  どんな社会でも悪い面がまったくないということはあり得ない。いい面もあるだろうし、悪い面もあるだろう。いい面も悪い面も見ないと真相を書いたことにはならない。悪い面には一切触れず、いい面だけを書いた記事に私は疑問を抱くと同時に、マスコミのあり方を考えさせられた。


 私は「独立自尊」の人となるためには四つの条件が必要であると考えている。一つは、人を頼りにせず、自分で考え、自分で判断し、自分で実行できる人であることである。それは人の意見に耳を貸さないということではなく、人の意見は十分に聞くが、判断は自分が行うということである。自分で判断するためには高い見識が必要であるが、それを身につけるのが学問であり、学問しない人は独立自尊の人とはいえないのである。
 第二は、自分で考え、実行する以上、その結果については自分が責任を負うことのできる人であることである。ほかの人や社会に責任を転嫁するようなことがあってはならない。
 第三は他人に対して思いやりのある優しい心をもった人であることである。自分で考え実行しその責任を負うのには強い心が必要であるが、同時に相手への思いやりを忘れてはならない。真の強い心は、優しさに裏打ちされているものでなければならない。さもないと「唯我独尊」になり、単なる傲慢になってしまう。
 第四は、そのような自分を大切にし、自らを尊重する人であることである。こういう人は自分を卑しめることも、ほかの人を卑しめることもしない。

文体も平易で、読みやすい本でした。なんだかちょっと懐かしい気分になりました。

「孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記」を読んで

大西洋横断で一躍名を馳せたリンドバーグが、第二次世界大戦前後に綴った日記です。

とにかく、彼のぶれない観念は驚嘆するばかりです。

この日記で彼が終戦時に感じたことは最後の4ページに記されています。まずは、その文章を掲載します。

(廃墟の中に立つ-1945年 ナチスの捕虜収容所に来て)

 われわれが佇む人骨の溢れた穴の周辺には、こぼれた骨灰の跡が小径のように尾を引いていた。われわれが暖炉用の石炭殻を投げ捨てるように、骨灰はぞんぱいに投げ捨てられたのだ。その穴は、庭先の景観を無視して石炭殻の穴を掘るように掘ってあった-焼却炉からはさほど遠くなく、しかも穴を掘りやすい地面に見えた。近くに長方形をなした二つの小山があり、似たような穴の跡であろうか。少年は、焼却炉から運び出されてさほど時日が経っておらぬ膝関節の部分を拾い上げ、われわれの眼の前に突き出す。

 無論、このような事が行われているのを、自分は知っていた。しかし、よしんばそれが第三者の撮影した写真を見て得た知識であっても、自らその現場に立ち、この眼で見、この耳で聴き、五感で感じた場合とはわけが違う。一種、異様な困惑が襲ってきた。以前にかかる困難を覚えたのはどこでだっただろうか。南太平洋でか。そうとも、ビアク島の洞窟で日本兵の遺体が腐りかけるのを見掛けたときだ、爆撃穴に埋まる日本兵の遺体の上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントやまだ緑色を呈する日本兵の頭蓋骨が飾り付けてあるのを見掛けたときだ。

 かりそめにも人間が-文明人が、かかる次元まで堕落できるとは考えられないことのような気がする。にもかかわらず、彼らは現実にこうして堕落したのである。ここドイツのキャンプ・ドラにおいて、またかのビアク島の洞窟において。しかも、ビアク島ではわれわれアメリカ人がそれをやってのけたのである。それとは異なる価値のために立ち上がったと主張するわれわれが、だ。ドイツ人はユダヤ人の扱い方で人間性を汚したと主張するわれわれアメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのである。「やつらは本当に獣以下だ。どいつもこいつも皆殺しにすべきだ」。耳に胼胝(たこ)ができるほど、南太平洋のアメリカ軍将校から聞かされた台詞(せりふ)だ!「何故、兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか」

 私はポーランド少年を見やった。このような飢餓状態をどこで見たろうか。それも、ビアク島においてだ。原住民の操るカヌーの光景が記憶に甦(よみがえ)ってきた-われわれのキャンプ近くの岸辺に向かってゆっくりと漕ぎながら、半裸体の武装した原住民に護送される日本軍の捕虜たちだ。列の後尾にいた若干名は歩行できないほど飢えており、このポーランド人少年より痩せ細っていた。勿論、ドイツ人が捕虜収容所でポーランド少年を飢えさせたように、アメリカ人が日本人を飢えさせたわけではない。われわれがあまりにも”文明化”し、手際が良すぎただけの話である。ただ日本人の投降を受け付けないことにより、彼らをして密林内で飢えさせたに過ぎぬ(彼らの責任において)。単純明快な事態であった。飢餓のために眼がぎらつこうと疾病(しっぺい)の危険性があろうと、われわれは心を動かされなかった。数マイルにわたる密林がそれを覆い隠し、消し去ってくれたからだ。両手を挙げて投降しようとする先頭の日本兵を撃ち殺しさえすればよかった。(「ジャップの投降は信用できない。手榴弾を投げつけるからね。即座に撃ち殺してしまう手しかないよ」)。あるいはただ打切棒(ぶっきらぼう)に振舞い、白旗を掲げて来た敵の使者を怒鳴りつければよいのだ。歩兵の将校連が洞窟で、「顔を洗って出直して来い、畜生め」と勝ち誇ったように。

 かかる一連の出来事が走馬灯のように脳裏をかすめて行く。わが海兵隊が、ミッドウェーの砂浜に寸鉄を帯びないで泳ぎつこうとする日本軍の生存者を撃ち殺した話。ホランディア飛行場で、我が軍が日本軍の捕虜に機銃掃射を浴びせた話。ニューギニアの山越えに南へ飛ぶ輸送機の上から、オーストラリア人が日本軍の捕虜を突き落した話(「オーストラリア軍は捕虜がハラキリを演じたとか”抵抗”したからと報告してるんだ」)。ヌルフォール島で殺されたばかりの日本兵の死体から脛骨を切り出し、ペーパー・ナイフやペン皿を造った話。「そのうちに、あのジャップの野戦病院をたたき潰してやるぞ」と豪語した若いパイロットの話。金歯を求めて日本兵の遺体の口をこじ開けたアメリカ兵の話(「そいつは歩兵お得意の内職でね」)。「スーベニア用としてこぎれいにするため」日本兵の生首を蟻塚に埋めたという話。ブルドーザーで日本兵の死体を道路の片側に寄せ、浅い、墓標の無い穴に放り込んだ話(「それが近くにあったりすると、我慢ができないので埋めてしまうんだ」)。イタリアの町でムソリーニと愛人が逆さ吊りにされた写真を、高い文化的理想を主張する何千というアメリカ人が容認したこと。歴史を遡れば、かかる残虐行為は古今東西を問わず続けられてきたのであった。ドイツのダハウ、ブッケンワルト、キャンプ・ドラといった収容所においてばかりではない、ロシアから太平洋にかけても、またアメリカ本国の暴動や私刑(リンチ)、中南米のさほど喧伝されぬ蜂起や中国の残酷事件においても、さらに数年前のスペイで、往時のユダヤ人虐殺で、ニューイングランドの魔女焼き、イギリスの八つ裂き刑、kリストと神のみ名において行われてきた火刑においても。

 私は人骨の灰に埋まる穴を見降ろした(「一年半に二万五千人だ」)。かかる行為はなにも特定の国家や民族に限って行われたのではないことに気付く。ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。ドイツ人が人間の灰を穴に埋めることで自らを瀆した(けがした)と同じように、われわれもまた、ブルドーザーで遺体を凌い、墓標もない熱帯地の穴に放り込むことにより、自らを瀆したのである。地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることに変わりがない。「汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり」(新約聖書・マタイ伝第七章一節)。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ。

この本はまずは飛行機の専門家として、第二次世界大戦前夜のヨーロッパにおいて、航空兵力の整備が遅れているイギリス、フランスに対して疑念と、実際に戦争になれば苦戦することを予言しています。その上でルーズベルト大統領の口とは裏腹に参戦したがっている空気を読み取り、批判を加え、実際にアメリカ第一委員会で行動しています。結果はその通りに推移し、彼の冷静な目を感じずにはいられません。

対日戦争に突入し、平和なときは自分の意見を自由に述べ、でも一旦有事となれば国に尽くすべきだとして、軍隊を再度志願するもののホワイトハウスの妨害に遭い、なかなか軍務に復帰できず、暫くしてからよくやく従軍が認められ、南太平洋の前線に出ます。当初の日本軍優勢の時期を経て一旦帰国し、やがて日本軍劣勢の状況になった頃に戦線に戻ります。

そこで彼が目にしたのは、そこで彼が目にしたのは日本軍の絶望的な環境下での戦いと、アメリカ将兵の日本兵士に対する残虐な仕打ち。また、部隊内に広がる日本兵の残虐行為の噂と、だからこそ自分たちもやるんだという論理。この状況下で彼は敵を殺そうとするところまでは戦争である以上やむを得ないが、その後の扱いに人間としての尊厳を認めない自国兵の論理に疑問を抱き、我々が文明の名の下に彼らを罰することが出来るのだろうかと自問します。そしてその後降伏直後のドイツに赴き、そこれでもドイツ人に対する略奪と強姦を目の当たりにして、いよいよ以て疑問を抱きます。

そして記されたのが、上記の文章です。とにかく一人でも多くの人に手にとって読んで貰いたい本ですが、残念ながら絶版。私も図書館で借りて読みました。「どこの国がどうした」ではなく、戦争という極限状態の中で殺し合いを行い、その戦う戦士たちが一定の共通の倫理観を持って対峙しないと、いかに人間性が失われるものかということがよくわかる本です。

西洋において騎士道、日本において武士道が発達し、尊ばれたのも、全国民による総力戦では無く、限られた武人による戦闘にでもして共通の倫理観を持たないと、人間性が喪失し、ただ獣性のみで殺し合うという根源的問題に、先人たちは気付いていたのかもしれません。

第二次世界大戦時より、とかく戦争に正義とか悪とかを持ち込みます。そして勝者が正義を語り、戦後秩序の維持を語ります。そうではなく、人間そのものの本質に目を向け、正義か悪で判断するのでは無く、戦争そのものを行わないようにすることこそが何より大事だと、この本は教えてくれているように感じます。

「失敗の本質」を読んで

7月上旬、amazonを見る度に「Kindleシリーズが全て3000円オフ!」という表示が出ていました。

それを見ているうちに洗脳され、そっか7インチで16GBの記憶容量があるタブレットが12,800円とは安いじゃないかということで、うっかりポチッと押してしまいました。

でも7インチって結構持ち運びしやすく。無料の本とかもあって、一気に読書量が増えた気がします。特にKindleで途中まで読むと、AndroidでもiPadでも同じ所まで進めてくれるので、読みやすいんです。

そんな中またもやセールがあり、単行本で2957円、文庫で800円する「失敗の本質 〜日本軍の組織論的研究」が299円で買えたので、早速読んでみることにしました。


この本はミッドウェー、ガダルカナル、インパール作戦、沖縄戦などのケーススタディを元に、日本軍の意思決定や行動様式を組織論の観点で捉え、その後考察も加えているものです。印象的な言葉を取り出すと

「あいまいな戦略目的」
目的が明確でないことは、一瞬の間に重大な判断ミスを誘う
日本軍は六つの作戦のすべてにおいて、作戦目的に関する全軍的一致を確立することに失敗
両社の妥協による両論併記的折衷案が採用されることが多かった

「短期決戦の戦略志向」

「主観的で「帰納的」な戦略策定ー空気の支配」

「狭くて進化のない戦略オプション」

「アンバランスな戦闘技術体系」

「人的ネットワーク偏重の組織構造」

「属人的な組織の統合」
軍隊の持つ戦力とは何か、という基本認識においても米軍は綜合戦力という見方を重視

「学習を軽視した組織」
組織学習にとって不可欠な情報の共有システムも欠如
大東亜戦争中一貫して日本軍は学習を怠った組織→米軍は理論を尊重し、学習を重視
日本軍はときとして事実よりも自らの頭のなかだけで描いた状況を前提に情報を軽視し、戦略合理性を確保できなかった

「プロセスや動機を重視した評価」

★日本軍は、自らの戦略と組織をその環境にマッチさせることに失敗
・組織は環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなければいけない
・組織はその成果を通じて既存の知識の強化、修正あるいは棄却と新知識の獲得を行っていく
・適応力のある組織は、環境を利用してたえず組織内に変異、緊張、危機感を発生させている
・軍事組織は、平時から戦時への転換を瞬時に行えるシステムを有していなければならない

・米軍は、南北戦争での体験から第二次大戦では徹底的な能力主義を貫いた
→第一線指揮官に、その要求通りの成果を挙げられない隷下の指揮官を任免する人事権が与えられていた。必要な自律性を与える代わりに業績評価を明確にしていた

・日本軍は結果よりもプロセスや動機を評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とかやる気が評価された。
→業績評価があいまいであることは、信賞必罰における合理主義を貫徹することを困難にする

★進化は、創造的破壊を伴う「自己超越」現象

★自己変革組織は、その構成要素に方向性を与え、その協働を確保するために統合的な価値あるいはビジョンを持たなければならない

日本的企業組織も、新たな環境変化に対応するために、自己革新能力を創造できるかどうかが問われている

これは昔の日本軍のみならず、日本的な組織全般に言える傾向だと思います。そしてこれをブレイクスルーする人・組織はなかなか見当たらないのが現状です。だからこそこういった傾向があることを頭に入れ、今後の自らの行動に役立たせるようにすることが、いわゆる「歴史を教訓として」学び取ることだと思います。自分も自らを省みると、耳に痛い言葉ばかりです。
かいつまんで言うと、いかに「戦略目的を明確にし、共有する」かが問われているということなのでしょう。お盆休みも終わり、明日からまた仕事が始まりますが、いかに上記のことが出来るか、しっかりと考えてやっていきたいものです。

それにしても電子書籍とは便利なもので、上記の言葉は全てマーカーでチェックしたものです。つまり、紙を汚すこと無く、要点をチェックできるなんて、本当に便利だと感じました。あとはいろいろな書籍がKindle化されればいいのですが・・・。

「誰も戦争を教えてくれなかった」を読んで

最近、本を読んでも何もその後していないことが多いので、ちょっと備忘録的に書いて行こうかと思います。


「誰も戦争を教えてくれなかった」(古市憲寿著)

28歳の社会学者の方が書いた本です。自分より随分若い人でもこういう本を書くようになったんだなあと変なところに感慨を覚えました。

勿論、内容も面白かったので読んだのです。というのも視点が斬新だなと。

題名のように戦争とは何かとかの説明では無く、各国にある戦争に関わる博物館をめぐり、その国ごとの戦争に対する考え方、イメージが反映されたものが、博物館に表現されるということを彼の視点から書いている本です。彼はそれを

「博物館が戦争の何を伝え、何を伝えないかには、固有の歴史や葛藤がある。」

「戦争博物館というのは、すぐれて政治的な場所である。なぜならば、戦争が国家間で行われる外交手段の一つであるように、そこで起こったことの認定もまた、一つの外交であるからだ。特に国家が運営に関わる戦争博物館では、その国家が戦争をどのように認定しているかがわかりやすく可視化される。」

と表現し、自分のその言葉に首肯しました。


アメリカ、ポーランド、ドイツ、イタリア、中国、韓国、そして日本の博物館を訪れた感想などが描かれていて、その考え方に又考えさせられます。

例えばアメリカのアリゾナ・メモリアルは「爽やかで勝利を祝う楽しい場所」と表現し、中国の南京大虐殺記念館では「日本の残虐さを伝え、中国の寛大さをアピールし、最後には平和の大切さを強調する」と表現していて、確かに各国の捉え方を端的に言い表しているように思えます。

そして、特に日本のに対しての

「右翼にも左翼にも怒られないように、とにかくとにかく無難に戦争を描こうという姿勢は嫌というほど伝わってきた」

「国家が戦争のことを語ることができない日本という国を象徴するような展示だ」

という言葉は確かにと思います。日本にとって神学論争となりやすい「戦争」というものを的確に表現しているように思えます。

でもそのような姿勢では、寧ろ国際化どころかより内向きになってしまうのではないかとも思うのです。つまりはその話題で各国の人と会話が出来なくなるからです。

日本や世界の近現代をどのように評価し、どのように伝えるべきか。我々に課された大きな課題だと改めて思わされた本でした。

雑誌記事のご紹介 〜RETHINKING JAPAN from NEWSWEEK その2

前回に引き続き、記事のご紹介です。

欧米も誇張する日本の「右傾化」
J・バークシャー・ミラー(米戦略国際問題研究所太平洋フォーラム研究員)
横田 孝(ニューズウィーク日本版編集長)

 長年、世界のメディアから地味な扱いしか受けてこなかった日本外交。ところがこの1年ほど、領土問題をめぐって日本の韓国と中国との対立が先鋭化し、これまでになく注目されている。
 昨年末、保守的な安倍晋三が首相に返り咲いたことで、外国メディアはさらに色めき立った。そして、こんな「分析」や論調があふれるようになったー恐るべき安倍政権の下、これまで平和主義を貫いてきた日本は第二次世界大戦の歴史を修正し、自衛隊を好戦的な戦闘部隊に変え、東アジアを火薬庫にするつもりだ、と。
 昨年の衆院選直前、安倍率いる自民党が復権することを危険視した韓国の英字紙コリア・タイムズは、「国際社会は一致団結して日本の右傾化にブレーキをかけるべきだ」と、妄想じみた社説を掲載した。
 日本の外交・安全保障政策が「右傾化」すると恐れているのは、韓国や中国だけではない。英エコノミスト誌は1月、「恐ろしく右翼的」な安倍政権は「過激なナショナリスト」の集団であり、「地域にとって凶兆だ」と断じた。
 もちろん、これらはすべてナンセンスだ。日本政治と外交の現実を理解している人間なら、こうした指摘を一笑に付すだろう。日本は極右勢力に牛耳られてなどいないし、安倍政権にアジア地域を不安定化させるつもりもない。
 選挙中こそ、安倍は強硬な発言を繰り返したものの、政権に就いてからは穏健かつ理性的な政策を打ち出している。例えば安倍は就任直後、ソウルに特使を派遣し、次期大統領の朴クンヘ宛の親書を送った。重要なのは、日韓関係改善のために先手を打ったのが朴でなく、安倍だったという事実だ。先週も、安倍は国会で日中関係について「最も重要な2国間関係の1つ」と発言した。
 それでも、日本があたかも狂信的なナショナリスト集団によって動かされているという誤ったイメージが世界に拡散した事実は残る。なぜ日本はここまで誤解されるのか。そしてなぜ、日本は強硬なタカ派の国とみられるようになったのか。

根深い歴史問題の「物語」

メディアのセンセーショナリズムのせいだ、と切り捨てるのは簡単だろう。日本に限らず、どの国のメディアもかねてから耳目を集めやすい事実や発言を都合良く選んで報じてきた。安倍の現実主義的な側面を無視し、過去の発言を強調するのもその一例にすぎない。
 だが、問題は不誠実な報道にとどまらない。大学やシンクタンクの「専門家」や「識者」が、日本外交の全体像を無視した「分析」を広めたことも誤解の一因だろう。冷静かつ的確な分析をした専門家もいる一方で、一部の識者らは日本の中国と韓国との対立だけを見て、日本外交が「右傾化」していると断じている。
 言うまでもなく、日本は韓国と中国だけを相手に外交しているわけではない。日本のアジア外交にはより広範で地域的なアプローチがある。ASEAN(東南アジア諸国連合)との貿易を拡大し、インドとオーストラリアと防衛協力を進めるなど、多様な国益のために多角的な外交努力をしている。全体像を無視し、日中と日韓関係が悪化していることばかりをあげつらって日本が「右傾化」していると断じるのは偏狭な分析と言わざるを得ない。
 より厄介なのは、歴史をめぐる「物語」が「国際世論」として定着していることだろう。日本が70年近くにわたり平和主義を貫いてきたにもかかわらず、世界にはいまだに第二次大戦という過去の色眼鏡を通して見る傾向が残っている。
 日本に軍国主義的な過去があったことは否定のしようがない事実だが、問題は、歴史はしばしば単純な「物語」に矮小化され、不正確な言説につながる恐れがあることだ。歴史認識をめぐる混乱は、とりわけアジア諸国の政治に深く浸透しており、一種の悪循環を生んでいる。
 中国や韓国の一部政治家は、「南京虐殺」や従軍慰安婦問題をやり玉に挙げ、戦時中の日本をナチスドイツと同列に論じ、日本は十分な謝罪をしていないと声高に叫んできた。
 中国と韓国が政治的に歴史問題を利用していることに、日本の世論も辟易としている。社会に多くの矛盾を抱えつつ、超大国の地位を目指す中国は、日本こそがアジアの問題だと唱えて国内の結束を維持しようとしている。そんな中国の反日プロパガンダに、韓国も便乗してきた。日本を牽制し封じ込め、時には内政面での不満をそらすスケープゴートとして都合よく利用できるからだ。
 歴史問題をめぐる中国と韓国の不満の声があまりにも強いため、欧米諸国でも依然として、日本が戦時中の行為について一度も謝罪していないと思い込んでいる人も少なくない。日本政府が謝罪したことを知る人たちでさえ、教科書問題や「河野談話」を安倍が見直す可能性を取り上げ、日本は不幸な過去に対する反省の色がなく、戦中の歴史を美化し、修正しようとしていると不安視している。

「国際世論」は正しいか

 実際のところ、日本の保守派が望んでいるのは、世界が日本政府による度重なる謝罪を認知して受け入れ、歴史解釈の問題や領土問題を検証し、正すべき事実は正したい、ということだろう。残念ながら、こうした声は「日本は反省していない」というイメージや「国際世論」によってかき消されてしまう。
 これに乗じて、中韓両国は領土問題を歴史問題とリンクさせ、自らの主張を正当化しようとしている。尖閣諸島も竹島も、かつて帝国主義に燃えていた日本が「盗んだ」ものだとしている。
 中国と韓国による主張の法的・歴史的根拠には微妙な点があるにもかかわらず、外国メディアの多くは中国や韓国の主張をうのみにしがちだ。
 その一例が、ニューヨーク・タイムズ紙の名物コラムニストのニコラス・クリストフの記事だ。同紙の東京支局長を務めたこともあるクリストフは、昨年の中国での反日暴動には批判的な立場を取っているが、1月5日付のブログ記事で、「明治時代の文書によれば、日本が戦利品として(尖閣諸島を)事実上盗み取ったことは極めて明白にみえる」と書いている。
 それにしても、欧米諸国はなぜ、こうした「物語」を信じてしまうのか。その根底には、質は異なるがよく似た「物語」が欧米には存在することが関係している。第二次世界大戦がファシズムと帝国主義を打倒した「正義の戦い」だったという単純なストーリーだ。こんな見方があまりにも根付いているため、これと食い違う意見や史実を再検証しようとする意見はすべて悪と見なされ、「修正主義」「歴史の歪曲」と切り捨てられてしまう。

情報発信を怠る外務省

 極端な日本観がはびこりやすいもう1つの要因として、日本が実際、過去に極端な変化を経験したからだと指摘する声もある。戦前の日本は東アジアの支配に向けて突き進んだが、敗戦後はアメリカに忠実な平和国家へと180度転換した。こうした過去があるために「一部の専門家は日本が再び戦略を大幅に転換するという不安があるのかもしれない」とダートマス大学のジェニファー・リンド准教授は指摘する。
 だが、これもステレオタイプで浅はかな発想だ。日本という国家が過去に大幅な方向転換をしたからといって、現在の国際情勢や日本の民主主義を考えれば、再び同じようなことが起きると勘ぐるのは余りにも安直すぎる。
 自国に関する勘違いが蔓延しているにもかかわらず、日本政府は誤解を解く努力をほとんどしてこなかった。外務省からの効果的な情報発信は驚くほど少ない。品位や節度を重んじるあまり、日本は中韓のアグレッシブなPRに押されてきた。領土や歴史問題をめぐって韓国や中国と同じレベルに下がって泥仕合を繰り広げるのは品がなく、事実を積み上げて真実が理解されるのを待つほうが「理性的」で「冷静」だ、というスタンスを続けてきた。
 複数の外務省高官は、筆者の1人に対して日本に対する誤解に不満をにじませながらも、日本的な価値観からして、韓国や中国の主張に真っ向から声高に反論するのは「大人げないからやりにくい」と語ってきた。
 確かにそうかもしれない。だが、日本の情報発信力が弱ければ弱いほど、韓国と中国の言い分が「国際世論」に反映されてしまう。領有権問題がいい例だ。日本は尖閣諸島が日本の主権下にあると印象づけるため、「領土問題は存在しない」という立場を取り続けてきた。だが日本が自己満足に満ちた「不作為」の政策を取り続けている間に、中国は既成事実を積み上げ、「領土問題が存在する」というイメージを国際社会に浸透させてしまった。
 日本が効果的な情報発信戦略の構築を怠ってきたために、外国メディアや評論家は日本という複雑な国を説明するに当たって単純で都合のいいストーリーに頼ってしまう。結果、表面的で誤った日本論が横行する。
 日本が武力を保持する権利はないという暴論は、その最たる例だろう。自国の安全保障と領土防衛は帝国主義などではなく、近代民主国家に不可欠な要素のはずだ。にもかかわらず、一部のアジア諸国には日本が国際安全保障はもちろん、自国の安全保障について語ることさえ許さない「不文律」が今もあるようだ。

認識されない日本の前提

 例えば、アジア情勢の戦略的課題に対応するため、日本が自衛隊を南西方面に再編する計画を発表すると、中国メディアは日本の好戦性を示す「極端」な動きだと糾弾した。
 こうした誤解があるからこそ、日本は「自衛隊」という名の軍隊の位置付けを明確にする必要がある。自衛隊とその役割は、外国では十分認識されていない。
 筆者の1人が先日参加したアジア太平洋地域の安全保障に関するシンポジウムで、欧米人の聴衆からこんな質問が出た。「もし中国が沖縄を侵略しようとしたら、日本はどうやって沖縄を守るのですか」
 質問者が知りたかったのは軍事戦略上の問題ではなく、自衛隊をめぐる憲法上の制約との整合性だった。この質問者は、日本には自国領土内であっても自衛隊を派遣する「法的権利」がない、と思い込んでいたのだ。
 いわゆる「アジア・ウォッチャー」の理解不足をからかうためにこのエピソードを紹介したのではない。この発言は2つのポイントを浮き彫りにしている。1つ目は、日本は憲法上の制約で自国内の紛争でも自衛隊を派遣出来ないという認識を広く持たれているということ。もう1つは、日本はそうした力を持つべきで無いという前提が一部で広がっていることだ。
 実際には、安倍をはじめとする保守派政治家が平時に提案する改革案はどれも、欧米の価値観からすれば取るに足らないことばかりだ。集団的自衛権の行使や国連の平和維持活動における自衛隊の権限拡大は、他の「普通」の国なら問題視されることはない。ワシントンのアメリカン・エンタープライズ研究所の日本専門家マイケル・オースリンが指摘するように、こうした動きは「国家安全保障のより合理的な意思決定プロセス」の一部でしかない。
 にもかかわらず、自衛隊の位置付けや憲法上の制約は十分に理解されていない。日本の平和憲法が現代の国際情勢の現実にそぐわないことへの認識不足も根強い。その結果、安全保障政策のいかなる変更も日本の「再軍備」と曲解されてしまう。イーストウェスト・センターの客員研究員クリスタル・プライアーは、日本政治に関する誤解に満ちた欧米の論調を批判する報告書で、こう記している。「日本政府内の安全保障論者について外国人が論じるときには、日本には他国と異なる前提があることを認識すべきだ」
 日本をめぐる誤解は笑いごとではない。とっぴな憶測のせいで他のアジア諸国に不信感が広がれば、日本の国益はさらに損なわれていくばかりだ。

いかがでしょうか?

雑誌記事のご紹介 〜RETHINKING JAPAN from NEWSWEEK その1

最初の書き出しがいつも同じですが(汗)、寄る年波と年度末の繁忙にかまけて、なかなか拙ブログが更新出来ていません。どうも申し訳ございません。

これから書く記事も元はたまたま髪を切っている時にたまたま台の上に置いてあった雑誌で(とは言え、多分美容院さんも自分の好みを知っているのでわざと置いたのでしょうが)、思わず膝を打った記事を見つけ、すでに最新号では無かったので中古で取り寄せたのが2週間ほど前・・・。なので、もう1ヶ月以上前の雑誌です。

少々掟破りかも知れませんが、2回に分けてご紹介します。私はこの記事と次にご紹介する記事は、第三者的観点から、今の状況を的確に描写した記事だと思いました。ご覧いただいた皆様はいかがお考えでしょうか?

日本が世界から誤解される理由
ジェニファー・リンド(ダートマス大学准教授)

 学者や政治アナリスト、ジャーナリストたちはどういうわけか、日本を「普通の国」として扱うのが苦手なようだ。日本が何をしても、彼らは極端な色眼鏡を介してその意味を曲解してしまう。
 日本経済が急成長を遂げた1970〜80年代には、日本が築き上げた奇跡的な資本主義体制はいずれアメリカを追い抜き、世界に君臨するだろうと持ち上げられた。バブルがはじけて日本経済が下り坂に転じると、今度は正反対の日本衰退論が主流に。少子高齢化の進行によって日本は数百年以内に絶滅の危機に瀕する、という絶望的な未来がまことしやかに語られている。
 外交政策でも、極端な論調が幅を利かせている。
 第二次世界大戦後、日本は日米同盟の下で節度ある国家安全保障政策を追求しつつ、高度な軍事力を保有して対ソ連封じ込め政策をサポートしてきた。しかし多くのアナリストや国際関係の専門家は、日本の「控えめ」な態度ばかりに注目して、脅威的な軍事力の存在を無視。戦後の日本は、軍事体勢と決別した非武装の平和国家だとアピールしてきた。
 ところがここに来て、振り子は正反対に振り切れている。尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有問題をめぐる中国との関係悪化を、日本の平和主義の終焉とナショナリズム台頭の兆しと見なす主張が声高に叫ばれているのだ。

日本政界「右傾化」の嘘

 昨年9月に中国全土で吹き荒れた反日デモでは、日本企業への襲撃が相次ぎ、「日本を打倒せよ」と訴えるプラカードが通りを埋め尽くした。それでも、当時の野田佳彦首相は落ち着いた態度を崩すことなく、中国政府に暴動の取り締まりを冷静に求め続けた。
 なのに世界の主要メディアはこの数ヶ月間、ナショナリズムの大波が日本を襲っていると警告し、日本政界でタカ派が台頭していると書き立てている。
 皮肉な話しだ。日本政界の「タカ派」の指導者たちは、他国の基準で見れば究極の穏健派といえるだろう。何しろ彼らは、カナダに匹敵するほど温和な全体戦略を描き、中国の物騒な反日デモに対して平和と国際法の遵守を呼び掛けるような人々なのだから。
 実際の日本は決して平和国家ではない。だがその一方で、攻撃的な軍国主義国家でもない。ゴジラのように手に負えない経済大国でもないし、超高齢国家でもない。日本は普通の「ミドルパワー」国家だ。
 アメリカ(とおそらくは中国も)も別にすれば、日本ほど巧みに国力と影響力のブロックを積み上げてきた国はほかにないだろう。
 何世紀も前から、各国の国力はGDPと1人当たりのGDP、人口規模、技術力、政治的安定の指標で測られてきた。さらに現代社会では、民主主義の有無も項目の1つに含まれるべきかもしれない。
 この6つの指標について、日本を明らかに上回るのはアメリカだけだ。経済力と人口規模の組み合わせにおいて、日本に匹敵する国はヨーロッパには存在しない。代表的なミドルパワー国家であるイギリスは、人口もGDPも日本の半分ほど。ヨーロッパ経済を牽引するドイツも、人口、GDP共に日本の3分の2だ。
 複数の指標で日本を追い越しつつある中国でさえ、経済のファンダメンタルズに重大な問題を抱えている。巨大な労働人口を擁するおかげでGDPは膨張しているものの、国民の大半は貧しく、政府は汚職まみれ。政治的な安定を阻む課題が山積している。
 もちろん、日本にも問題はある。高齢化が進行し、労働人口が縮小する現状では、たとえ堅調な成長を実現出来たとしてもGDPは当分の間、横ばいが続く可能性が高い(それでも世界3位だが)。
 安定した民主主義を誇る一方、13年間で9つの政権が生まれては消えてきたのも事実だ。さらに近隣諸国との長年の歴史問題が、日本を世界に売り込む「ソフトパワー」外交の足を引っ張っている面もある。
 それでもなお、日本が全体として驚異的な国力を備えているのは間違いない。豊かで民主的で今日行く水準が高く、テクノロジーを使いこなせる巨大な人口を抱え、おまけに強力な軍事力も保有しているのだから。
 ゴジラのような強力な経済か、傷ついた無力な経済か。従順な平和主義国家か、過激な軍国主義か。日本がそんなふうに極端に描写されるのはなぜか。
 まず「予測」に付き物の問題がある。評論家はしばしばGDPや防衛費といった指標をいくつか選び出し、現在の政治や経済情勢に何の変化もないと仮定して、20年、30年、または50年後を予測する。
 しかしそのように直線的で、変化や柔軟性を伴わない予測はこれまで当たったためしがない。かつて専門家達は、アメリカが凋落し、ロシア経済や日本経済が世界を席巻すると予想した。今日では、中国の台頭を誇張して論じているように見える(それが正しいかどうかも、時間がたてば分かるだろう)。

現実のずれが疑念を生む

 特に予測が難しいのは、安全保障の分野だ。安全が危機にさらされ不安が増大しているとき、人は思い込みや自分に都合のいいことしか見ようとしない「確証バイアス」によって、最悪の事態を想定しがちだ。
 このような予測をめぐる一般的な問題以外にも、日本の国力を分かりにくくしているものがある。政府自身の振る舞いだ。
 日本の政府関係者や学者、安全保障の専門家はしばしば「日本に軍隊はない」と口にする。しかし憲法9条に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあるにもかかわらず、日本は陸軍はもちろん、東アジア最強の海軍と空軍を有している。
 言葉と現実のずれは近隣国の人々の心に疑念を生む。なぜ日本政府は言葉を濁し、分かり切ったことを否定するのかと、彼らはいぶかる。日本政府が軍事力に関して率直に語っていないと考える隣人たちは、日本が軍国主義になることはないと言っても信じない。そんな疑念に満ちた環境で日本の力が少しでも増せば、過剰なほどの注目と恐怖心を引き起こす。
 核兵器をめぐる議論も同じような混乱を生んでいる。多くの日本人は、核兵器を邪悪なものとして非難する。指導者たちは毎年8月6日や9日に行う演説の中で、核兵器のない世界を目指すと誓う。

「日本カード」で人気取り

 その一方で、日本は40トン以上のプルトニウムを保有している。核兵器を持たない国としてはどこよりも多い。日本はいつか核兵器を手にする必要が出てくるだろうし、それが憲法9条に反することはないー過去にこんな発言をした政府高官や政治家も1人や2人ではない。
 だから誰にも分からない。日本は核兵器廃絶を目指す世界的取り組みの柱であるのか、それとも次の核保有国になるのか。
 最後にもう1つ、日本が極端な目で見られる理由がある。近隣諸国に、日本の政策を意図的に歪曲する人々がいることである。
 中国や北朝鮮の指導層は自分たち独裁政権の正当性を訴えるために、日本による占領と戦争の記憶を持ち出し続ける。民主国家の韓国でさえ、政治指導者たちは国民の人気取りや、自分たちの望む防衛政策への支持を得るために「日本カード」を使うことがある。
 こうしたことから、東アジアの指導者たちは日本の防衛政策におけるわずかな変化も、意図的に誇張してみせるのだ。
 日本を極端視する傾向に、さまざまな理由があるのは確かだ。しかしそうした見方は間違っているだけではない。東アジアの勢力バランスの中で日本が担うことの出来る役割を、同盟国が見逃すことにもつながる。つまり、日本の存在価値を過小評価することになる。
 日本を平和主義の国と考えることで、人々は日本が東アジアで担うことのできる役割を見過ごしてしまう。一方で、日本を軍国主義の国として見れば、真のパートナーとして信頼出来なくなる。
 過去60年間、日本は能力に見合う仕事をしてこなかった。安全保障をアメリカに頼るだけでなく、安全保障政策を日米同盟の枠内に押し込め、従属的なパートナーとしての役割に甘んじてきた。(管理人注:これは日本の怠惰な姿勢だけではなく、パールハーバー世代のアメリカ側も日本が自律的な安全保障政策を採ることを容認しないことがアメリカの国益だと考えていたからだと思います。)
 日米同盟においては、日本は最小限の役割を演じればいいとアメリカも同意している(つまりアメリカが軍事力を用意し、日本は基地を用意するということだ)。
 しかし今や、同盟関係や国際政治において日本が本当の能力に見合う、もっと普通の役割を担う時が来たのではないか。日米政府は考えるべきだ。

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