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2015年8月

夏休みの読書 「民王」

備忘録的に、読んだ本の感想をちょっと書いておこうかと思いまして・・・。

池井戸潤さんの作品は半澤直樹以来、結構読むようになった割とミーハーな自分ですが、この本は割とばかばかしい設定(総理と馬鹿息子が入れ替わる)で始まりつつ、訳のわからない出来事も交えながら(他にも入れ替わりが発生、そこにCIAの極秘技術も)結構テンポ良く読ませてくれて、しかも場面場面で共感もしてしまう、2〜3時間で読むにはとても良い本だと思いました。池井戸潤さんらしく、読後感もスカッとする、水戸黄門のような小説です。

書評では、「彼等(第1次安倍政権から今に至る全ての総理)が既得権にしがみつき、自分たちのために物事を決めてきたことがよく判る。武藤泰山や翔とは異なり、だ」とありましたが、寧ろ彼等も本当は国をこうしたいという熱い思いがありつつも、しがらみに囚われてなかなか踏み出せないから、初心に返って初志貫徹した方がいいよ!と言っている応援歌のような本だなと自分は感じました。

ドラマとは若干ストーリーも違うようですが、いつものことですが、ドラマより本の方が設定もテンポも良いように感じます。

戦後70年に考えること

今、日本テレビのミヤネ屋で戦後70周年企画と言うことで、硫黄島の戦いのことを放送しています。

その中で栗林中将が採った地中にトンネルを張り巡らし、持久戦を目指した作戦を「今までやったことのない、考えたことの無い」といった言葉で表現していました。

この人たちは、ついこの間、ペリリュー島に陛下が慰霊に行ったとき、色々報道していたことを忘れたのでしょうか?

昭和19年以降、日本は戦略を改め水際撃退と白刃突撃から、地下道を張り巡らし、洞窟に籠もり、持久戦を志すようになったのです。だからこそ、ペリリューでも、サイパンでも、沖縄でも、勿論硫黄島でもあれだけ凄惨な地上戦となったわけです。

こういったことを全く無視して、地下壕を張り巡らしたのは単に栗林中将の英雄物語的にしていました。

この1ヶ月、終戦70周年に併せて、色々な特集がテレビのニュース等で組まれていました。そのこと自体はいいことだと思いますが、思い込み、事実誤認がこのように多いように思いました。

あと、よく80〜90代の人を出して、「戦争を知る世代が最後に伝えておきたいこと」ということでインタビューを取り、流すのもよく見ます。

でも、ここで忘れてはいけないのは、例えば90歳の方でも開戦当時は16歳、終戦時は20歳ということです。残念ながら国家の命運に関わる決断に関わることも、選挙権を行使して時の政治の流れを作ることも無かった世代です。彼らは言われるがままに時運に巻き込まれていった世代です。そこは理解して聞かないと、当時の日本や世界を見誤ると思います。

例えば、地下道を掘って持久戦に徹するのは突撃して早々に全滅するより、ある意味よほど合理的な戦法です。でもその結果より凄惨な戦いとなり、その土地に住んでいる住民も巻き込んで両者の人的損害をより大きくしたということでは、今の倫理基準から考えれば、より狂気に向かって行った作戦とも言えるでしょう。

これは開戦時でも、もっと前の満州事変の時でも言えるわけです。

気の狂った命の大切さもわかっていない狂信的な指導者や軍が導いて戦争となったわけではなく、合理的な選択をしているつもりが、結果的にとんでもない戦争を引き起こし、数多くの日本人や世界の人々の生命を、奪うことになった。それはどうしてか、では、どうすれば防ぐことが出来るのかを考えることが一番大事だと切に思います。

戦争中の悲惨な体験を語り継ぐ意義もわかりますが、それより、日本はどの時点で道を踏み誤り、ああなったのかを考察していく方がよっぽど意義があるのです。被害を語り継ぐ限り、そこには加害者がいて、それに対する恨みつらみにしかならないのは、中韓を見れば明らかです。

対華21箇条の要求は?シベリア出兵は?暴支庸懲の流れは?張作霖爆殺は?満州事変は?ロンドン軍縮会議での態度は?統帥権干犯は?中国市場での特殊権益の主張は(アメリカの門戸開放政策)?515事件は?226事件は?天皇機関説は?国体明徴運動は?日華事変は?トラウトマン工作と爾後国民政府を対手とせずの近衛声明は?軍部大臣現役武官制は?枢軸国についた外交は?ノモンハン事件は?関特演は?南部仏印進駐は?日ソ不可侵条約は?日米交渉は?
(各事件にwiki等のリンクを張っておきました。ご興味があればご覧下さい)

私は今後のために、平和な世界を作るためと言うのなら、昭和19年から20年の戦争の被害を語り継ぐより、上記の事件に対する反省点を考えた方が余程意義があると思います。それこそ、「歴史を鑑とする」考え方だと信じています。

「慶應義塾の昭和二十年」の展示物から③ 退院に際しての小泉塾長の挨拶文(昭和二十年十二月一日)

戦前・戦中・戦後の厳しい時代に慶應義塾の塾長を務め、戦後は今上陛下の教育掛にも就任された小泉信三元塾長は、戦争末期の昭和20年5月、空襲によって被災し、大火傷をおって、長期入院を余儀なくされました。彼の7ヶ月の入院生活の間に、日本は戦争に敗れ、世の中は一変し、世相も混沌としていきました。いよいよ退院と言う時に、塾生(慶應義塾の現役大学生、そしてそれ以下の学生)に対しての挨拶文を発表しました。その全文を今回はご紹介させて頂きます。ちょっと長いですし、一部難しい言葉もあるかもしれませんが、是非ご一読していただければと思います。

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(被災前の写真)
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(戦後の写真、火傷の跡が見えます)


退院に際しての小泉塾長の挨拶文(昭和二十年十二月一日)

塾生諸君に告ぐ

去る五月二十五日の空襲に負傷して以来、私は半年の久しきにわたり病院生活を続けていましたが、病ようやくにして癒え、今日退院帰宅いたしました。しかし、なお静養を要するので、今暫くは諸君と講堂において相見ることは出来ません。よって取り敢えず紙上に於いて諸君にご挨拶申します。

私の塾長たる任期は十一月末日をもって満了しましたが、慶應義塾評議員会によって重ねて新たに選挙せられましたので、引き続きこの任に当たることになりました。病余の身としては軽からぬ負担と思いますが、しかし我が塾生諸君の長として、九十年の歴史を担う慶應義塾に於いて諸君と学窓生活を共にしうることは、私に取りこの上なき喜びであり、誇りであります。

顧みれば私の入院の時と退院の今と、六ヶ月を隔てて世は一変しました。当時われわれ国民は、日々死を目前にして苦しき戦いを続けていましたが、戦い敗れて今は平和国家建設の難路をあえぎつつ、歩んでいます。しかしこの間に於いて日本の学生諸君が、寸毫の遺憾なく国民の義務を尽くされたことについては、誰一人これを争うものはありません。学生の大なる部分は国家の危急に応じて農工業の勤労に出勤し、他の大なる部分は直ちに武器を執って戦場に立ちました。そうしてその中の少なからぬ人々はついに還らず、終戦後の今日もまた相見ることの出来ない人々となりました。戦いは敗れましたが、そうして今我々は戦うべからずに戦ったという悔恨に心を噛まれておりますが、しかし国家のために身を捧げた人々の ー殊に若い人々のー 忠誠はこれを忘れてはなりません。あの八月十五日の直後、新聞に発表された詩歌の中に

盂蘭盆会(うらんぼんえ、所謂お盆のこと) そのいさほしを忘れじな  虚子

と言う一句がありました。敗戦の悲しみの中にひそかに私はこの句をくり返して読み心にとどめました。まことに諸君、死したる諸君の友や先輩のいさほしを忘れてはなりません。戦時に於いて国民の本分に忠なる人は、即ち平和国家建設に於いてもまたその責務に忠なる人でならなければならぬ。これは諸君の体験によって充分首肯せらるるところであろうと信じます。

民主主義の大道をひらくは、こと、もとより容易ではありません。しかし幸いなるかな、我々慶應義塾同人のためには八十年前福澤先生の高くかかげられたる炬火(きょか、たいまつ・かがり火のこと)の火が、今なお炳として行く手を照らしています。彼の、天は人の上に人を造らず又人の下に人を造らずといえり、との一句を以て筆を起こした先生の有名な「学問のすすめ」は、遠く明治五年の著述でありますが、その意味は常に新しく、言々宛も今の世を警められたるかの如き感があります。先生はまた、本来人に貴賤無し、貴賤はただ人の学ぶと学ばざるとによって岐れるとも訓えられました。我々は学ばざるがために敗れ、学ばざるがために戦うベからざるに戦いました。国民は肝に銘じてこのことを記憶しなければなりません。

学ぶと言えば第一に智を研ぐことが考えられます。しかし、私はしばらく学ぶという意味をもっと広く解して、真と善と美のためにする一切の活動、すなわち学問、道徳、芸術上の一切の努力をそれに含ませたいと思います。そうしてこの一切の努力によって新しい日本は建設されるということを諸君に切言したいのです。なかんづく大切なのは道徳的精神、道徳的意志の振作(奮い起こす)であって、これなくしては我々は現在の悲境を脱出することは出来ません。一例を言えば俗に衣食足って礼節を知ると申します。これは無論一面の真理でありますが、我々日本国民としてはこれに満足すべきではありません。礼節は衣食に俟つというか。しからば衣食足らざれば礼節は棄てても差し支えないか。諸君は無論肯んぜぬでありましょう。よしや衣食は衣食は足らずとも礼節を忘れず、窮しても乱れざる国民であってこそ、初めて我々は再興の資格を勝ち得るのです。戦い敗れたりといえども気品は失わず、常に信ずるところを言い、言うところを必ず行う信義の国民であることを、事実によって世界に示してこそ、初めて我々は新しい出発をなし得るのだと私は信じます。民主主義の根幹は各人の自尊自重の念にあることを、諸君は寸時も忘れてはなりません。

現在我々は非常な苦境にあります。しかし諸君、艱難にくじけてはなりません、詩人はかつて我が慶應義塾学生のために歌ってその一節に言いました。

まなこを挙げて 仰ぐ青空
希望は高く 目路ははるけし
慶應義塾の 若き学生

まことに然り。諸君は常に目を挙げて大空を望み、常に希望を高く保たねばなりません。よしや新日本建設の道は遠くとも、諸君の健脚は必ずこれを踏破するを信じます。今日書籍も無く、筆紙墨も足らず、諸君の修学は様々の故障に妨げられています。しかし先師福澤先生はもっと遥かに苦しい勉強をせられたのです。それを思えば諸君は自ら発奮せずにはいられないでしょう。かくして相共に励まし合って我々の進むべき道を進もうではありませんか。

退院に際し取り敢えずこれだけの言葉を諸君に贈ります。

先ほどご紹介したそれぞれ2つの展示物はいずれも当時学生かその付近の年代の方、即ち青年の感じ方、考え方をご紹介するものでしたが、今回は壮年期の、一番国を動かし得る年代の方の感じ方の一つをご紹介するものになります。

小泉信三元塾長は大変合理的な方であり、また剛毅な方でもいらっしゃいました。野球を規制しようとした政府・軍部に対して、一人で論陣を張って六大学野球の継続を認めさせたり、戦後の共産主義礼賛の空気の中、共産主義の問題点を突いた本を出版したりと、自らの信念に忠実な方でした。

今回の文章、大きく分けて6つの趣旨があると思います。

1)戦時に於いて国民の本分を尽くした学生たち(勤労奉仕した人も出征した人も)のことを忘れてはならない
2)我々は学ばざるがために敗れ、学ばざるがために戦うベからざるに戦った。国民は肝に銘じてこのことを記憶しなければならない。
3)ここでいう「学ぶ」とは学問上の知識のみならず、道徳、芸術まで幅広いもの。これらに対する努力を重ねることによって新しい日本が建設される。
4)その中でも特に道徳は大事で有り、衣食足らざるとも礼節を忘れず、窮しても乱れずの精神であってこそ再興の資格を得る。
5)民主主義の根幹は各人の自尊自重の念。
6)現在非常な苦境となっているが、艱難に挫けず、常に目を挙げて大空を望み、常に希望を高く保たねばならない。

といったところです。この中で2番目に紹介された詩は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、慶應義塾普通部(現在日吉にある中学校のこと。)の歌の一番そのものの歌詞です。

また、上記に流れている精神は、自分も愛して止まない「慶應讃歌」の精神にも通じるところがあります。

そう考えると、今の慶應義塾の流れは、戦後の日本の再出発と共にあったと言えると思うのです。

この拙ブログを読んで頂くとわかるかと思いますが、自分は母校が好きです。在学中から普通に好きでしたが、社会人になって色々と義塾の先輩たちが歩んで来た苦難、葛藤、行動を知る度に、自分の母校に対する誇りや愛情が深まっていきました。

今までご紹介した3人はいずれも神がかっているわけではなく、自らを誇るわけでも卑下するわけでも無く、合理的な思考を保ちつつ、懸命に自分たちがおかれている状況下で自分たちの本分を尽くそうとしました。どの時代においても、それは必要な事だと思います。それをどんな時代においても忘れないで生きたいと思うのです。


ちなみに小泉信三元塾長の著書について書いた拙ブログの記事は以下の通りです。こちらも宜しかったらご覧下さい。

「練習は不可能を可能にす」を読んで

「ペンは剣よりも強し」を読んで

海軍主計大尉小泉信吉を読んで

「共産主義批判の常識」を読んで

「慶應義塾の昭和二十年」の展示物から② 特攻出撃10日前の隊員の雑談を記録した手帳(上原良司妹・清子)

今日ご紹介するのは、上原三兄弟の妹、上原清子さんが出撃直前の特攻隊員の会話を記録した手帳(特に有名なのは上原良司さん。経済学部1年で学徒出陣、特攻出撃前につづった「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。」の言葉が印象的な手記は有名。清子さんが兄良司さんとの最後の面会時、居合わせた学徒出身の特攻隊員たちがお茶を飲みながら交わす冗談ともつかない雑談が印象に残り、帰宅後手帳に書き留めたそうです)

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(佐賀県の目達原基地での上原良司さん)

「俺と上原と一組か。大物をやれよ。小破なんか承知せんぞ。」 「当然だ。空母なんか俺一人で沢山だ。」

「これがニューヨーク爆撃なんていうなら喜んで行くんだがな。死んでも本望だ」
「実際だ。心残りはアメリカを一遍も見ずに死ぬことさ。いっそ沖縄なんか行かず、東の方に飛んで行くかな。」
「アメリカに行かぬままお陀仏さ。」

「女にも特攻隊があれば貴女方、行きますか」
「馬鹿なこと、聞く奴があるか」
「女だって飛行機をちゃんと整備してハンドルさえ握れば目的地に行くようにすれば良いじゃないか」
「真直に行ったらカムチャッカへ行っちまうぞ」

「向こうの奴らは何と思うかな」
「ほら、今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」

前にも書きましたが、最初の「小破なんか承知せんぞ」といった会話を見ても、無理矢理自爆を強要されているというよりは、その意義を最大限に発揮しようとしている、ごく当たり前の精神です。だからこそ、「これがニューヨーク爆撃なんていうなら喜んで行くんだがな」、つまり喜んで行くわけでも無く、死んでも本望と言い切れない気持ちもまた当然のように浮かんでくるわけです。

そして自分たちの逡巡をわかってもらいたい気持ちもあったからか、女子に向かって「特攻機があれば、貴女方、行きますか」と聞いたのかなと思いました。

そして「向こうの奴ら」と言っていますが、アメリカ人というよりは客観的に自分たちを見れば・・・、ということでしょう。「ほら、今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴」と自分たちのことを冗談に混ぜながら本音を語っていたのだと感じます。

つまり彼らは全くイヤイヤというわけでもなく、洗脳されて嬉々として死地に赴いたわけでもなく、自分たちの行動を客観的に見ることも出来、その上で覚悟を決めた。その心の葛藤、逡巡に思いを致さないといけないと思うのです。

彼らは、極言すれば、犠牲者でも無く、英霊でも無い。

苛酷な祖国の状況に直面したときに、悩みながらも自らの運命に正直に、自らの責務を果たそうとしていたその時代の若者たちと言うべきだと思っています。


参考までにこの後、実際に兄君の良司さんが遺した文章がこちら。これは昨年の展示ではこの手記の実物が展示されていました。この文章を読めば、当時の若者たちの知的水準の高さ、世界情勢の判断、でもごくごく普通の感情を持つ青年だったことがわかると思うのです。

人間はどの時代も大して変わることはないと思います。だから、彼らを一般人と違う人として捉えると本質を見誤ると思います。このような状況になぜ日本が陥ってしまったのかを、合理的に学び考えることが何より大事だと思います。情緒に流されること無く。

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。 権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。 真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。 愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。 こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。 飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。 明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。 言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で。

「慶應義塾の昭和二十年」の展示物から① 学徒出陣時にレコードに残された音声(塚本太郎)

最初は昨日拝観した「慶應義塾の昭和二十年」での展示物を色々とご紹介しながら、感じたことを書こうと思ったのですが、一つ一つを省略することが勿体なく感じ、一つ一つについてゆっくりと書いていこうと方針転換しました。第一回目は学徒出陣時にレコードに録音した特攻隊員の言葉です。

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(このレコードを録音した塚本太郎さんの家族写真です)


回天(魚雷型の一人乗りの潜水艇、いわゆる特攻兵器で命中させるまで人間が操縦する必要がある。すなわち命中させるイコール搭乗員の死を意味する)搭乗員となり戦死した、塚本太郎さん(元塾体育会水球部員)が学徒出陣時に、ご家族が経営されていた録音スタジオで人知れず録音したレコードの内容。

「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんな我儘なものを、よくもまあほんとうにありがとう。

僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りに行ったね。あそこで転んだのは誰だったかしら。雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって ----

然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。

そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵激攘せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの 血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。

年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して 健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃釼を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。

大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。みんなさようなら! 元気で征きます。」

色々と人によって感じ方は違うと思いますが、自分としては

「こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって」

という部分と、

「我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ」

という部分は、どちらも本音なんだと思います。すなわち出征した兵隊さんたちも普通に「(家族の)みんなと愉快にいつまでも暮らしたい」と思っていたし、同時に「余生の全てを祖国に捧ぐ」、つまり天皇(陛下)のために戦っていたのでは無く、あくまで命を祖国、すなわち国であり、ふるさとであり、家族でありに捧げて戦おうと思っていたということです。

つまるところ、前回のNHKの番組で言っていた、軍を非合理の固まりで天皇(陛下)のために戦い、玉砕するまで戦い続けて、国民を守るなんて考えはまるで無し。国民もそう教育されていたので、みんな信じ込んでいた」わけはないってことがよく感じられると強く思います。

それは最後の方にある言葉からもよくわかります。

「年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して 健闘せられよ。」

とあるように、戦争のみが頭にあるのではなく、「大東亜の建設」という一種の理想郷をアジアに打ち立ててほしいと言っている訳ですから。今から見れば侵略に見えますし、実際に当のアジアの人たちも一部の軍政で善政が敷かれた地域を除けば、また面倒な支配者が来た(当時はいずれにしても植民地)といった思いを現地の方は抱いていたようですが、当人たちからすれば理想の大東亜を打ち立てたいと思っていたんでしょう。

本来であれば平和に愉快に暮らしたかった若者を大量に動員し、死地に追いやった戦争はやはり憎むべき物だと思います。ただ、戦地に赴く人たちは喜び勇んでというわけでは無いにせよ、自分なりに色々と考えた上で、出征を前向きに捉えようとしていたことを否定しても、また意味が無いことだと思います。そして前向きに出征しようとしていたことが一種の洗脳(戦前の教育とかによる)によるものだとするのは、戦地に赴いた人たちを冒瀆している、すなわち彼らの教養レベルを一切否定していることにつながることも忘れてはならないと思います。

やはり一言のうちに「戦前、戦中派」と言っても、その当時の年齢によって見え方、視野は全然違うわけで、その時の実情を感じようとすれば、出征可能な年齢以上の人たちの言葉を聞いたり読んだりするしかないと思います。今は戦争を語る事が出来る人の最年長が当時小学生くらいの方が多いので、その辺は頭に入れておいた方が良いと思います。

次回は、特攻攻撃出撃10日前の隊員たちの生の声をメモした手帳の中身をご紹介します。宜しかったらどうぞご覧下さい。


玉音放送の原盤公開を受けて放送された「週刊ニュース深読み」を視聴して

今日は、終戦の玉音放送のレコードの原盤の音源が宮内庁から公開されたこともあり、朝のNHKの「週刊ニュース深読み」で、10代、20代、30代、40代、50代、60代、70代以降というくくりでゲストが呼ばれ、終戦時の日本について話していたので、視聴しました。

が、正直言って、内容については変な断定口調を70代以降代表の田原総一朗さん、50代代表の歴史学者の古川隆久さんがしているので、ビックリしていました。

以下、会話内容の書き起こしです。

田原さん「軍というのはね、国民を守るという意識は全く無い。」 小野さん「でも軍に入る人は家族やふるさとを守るために入るんじゃ無いんですか?」 田原さん「ふるさとや家族を守る為じゃないんですよ。それが証拠に戦後サイパン島とか、それから或いは硫黄島とか、それとか沖縄とか、全部玉砕しているんですよ。つまり、軍は戦えるときは戦うと。戦えなくなるまで戦うと。戦えなくなるって言うのはみんな死んじゃうってこと。」

古川さん「なんでそんなことになっているかって言うと、田原先生はよーくわかっていると思いますが、戦前の日本の軍隊っていうのは、そもそも天皇のための軍隊っていう位置付けになっているんですね。あの、軍人勅諭で。あと戦前の日本は国家が無ければ人が生きられないっていう(多分後に続く言葉からすると、人が生きるために国家がなければいけないの誤りか?)人のための国家では無く、国家が無いと人が生きられないからまず国家を守ろうというのが前提で、そのためなら個人が犠牲になっていいというのが、政治家の普通の考えで・・・」

柳沢さん「それがだから昔は、田原さんよくご存知だと思うけど、学校の教育の中でそう教え込まれてきたんでしょ。日本の教育の中でそう教え込まれてきたんでしょ。」

田原さん「僕らが小学生の時に、将来の選択肢は2つしかない。陸軍に入るか、海軍に入るか。軍人になるしか無いのよ。」

古市さん「(前略)でもこの実際、終戦に至るまでは官僚たちやおじさんたちの変なプライドのせめぎ合いとかで終戦がここまで遅れたっていうのとかもあると思うんですね。でも実はその姿って現在の国立競技場の問題とかの官僚や政治家たちのゴタゴタとそんなに変わらないのかなって気がしてる」

田原さん「(大意)軍は負けを認めないけど、政府が負けを認めるときに何を守ろうとするか?それは国体、すなわち天皇だ。」

古川さん「まあ、一番広い意味では国体とは一般的には国の形のことですが、日本だと全てを超越した絶対的な天皇が代々日本を支配してきた日本ていう意味もあって、だからここでどうしてもやめたくないって言っている人たちの理由の一つは、あのそれが断ち切られちゃうと、今まで自分たちが生きてきた意味が無いと。」

田原さん「軍は最後の一兵まで戦うと、つまり玉砕をやると。それに対して政府は国体を守ると言った。で、天皇の聖断、天皇の判断を待つと。天皇が唯一、国民の生命を守るべきだと。天皇が玉音放送をしたのは、これ以上国民が死んだら大変だと。国民の生命を守ると言うことで戦争を止めたんですよ。」

古川さん「つまり軍から見ると、天皇っていうのは誰にも頭を下げない、冠たる天皇だからこそ付いてきて、まあそれのために戦っていたというプライドで来ているわけですね。天皇が頭を下げちゃうってことになると、現実の天皇は天皇じゃ無い。だからクーデターで最初は監禁しちゃおうという計画になって、レコード盤を奪取しちゃう訳ですね。」

田原さん「結局ね、陸軍大臣阿南っていう陸軍大臣が、軍は戦うと、徹底的に。で、軍は徹底的に戦うってこともわかるわけね、陸軍大臣は。だけど天皇が戦争を止めようと言っていることもわかる。それで結局自分が自殺をして、クーデターを抑えるわけね。」


まず現在81歳の方(ここで言うと田原さん)と言うと、開戦時あたりに小学校(当時は国民学校初等科)に入学し、4〜5年生くらいで終戦を迎え、180度違う教育を小学校生活の中で経験するという世代です。そりゃあ、混乱もするし、国に対しての不信感も芽生えると思いますが、自分より上の世代にどんな逡巡があってその行動となったかを考えずに、自分の印象をもって戦前を語るところがあると思います。そしてそれは、時としてミスリードに繋がっていると。

上記の会話の書き起こし、最初はサラッと書こうかと思ったのですが、なかなかまとめるのが苦手で、結局、今回の記事はこの番組だけにします。

なにしろツッコミどころの多い歴史学者と戦中派の言葉に感じます。

軍に入営する人の気持ちを小野アナウンサーが聞くと「ふるさとや家族を守るためじゃないんですよ。」と言い切ってしまっているところ。わざとウソを言っているので無ければ、全く出征した人の話や手紙を見ていないとしか思えません。

「日本の軍隊は天皇のための軍隊。軍人勅諭に書いてある」と歴史学者が言っていますが、軍人勅諭は「天皇が大元帥」であることを宣言はしているものの、あとは軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文で構成されています。つまり自分の絶対的な地位は説いているものの、自分の為に戦え(勅諭ですから天皇陛下の言葉ということです)とは言っていません。後で「現実の天皇は天皇じゃ無いから監禁しちゃえ」と軍が考えたと言っているから、主張に矛盾があります。

また同じく歴史学者が、「国家を守るために個人が犠牲になっていいというのが政治家の考えで」って、帝国議会で種々討論されていた内容を読んで言っているのでしょうか?ちゃんと議事録は残っています。

教育の中で軍国教育がなされたのは昭和10年代に入ってからで、それまでは教科書も比較的穏健で、よく目の敵にされやすい修身(今で言う道徳)でも人としての美徳や倫理を説くものが多かったのに、「教育でそう教え込まれた」と。

「国体とは、日本だと全てを超越した絶対的な天皇が代々日本を支配してきた日本ていう意味」って、その前に平沼騏一郎らが取り仕切っていた「国体明徴運動」でもそんなことは言っていません。最初に言っているとおり、国体とは「国の形」のことです。

「軍から見ると、天皇っていうのは誰にも頭を下げない、冠たる天皇だからこそ付いてきて、まあそれのために戦っていたというプライドで来ている」・・・?????

阿南陸相が自決をしてクーデターを抑えたって、宮城事件(ここで取り上げられているクーデターのこと)は、東部軍の田中軍司令官が説得・鎮圧したことを知らない・・・?(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

この内容を、実際にこの時代を知っている明治生まれ、大正生まれの人に聞かせたら、何て言うんでしょうか?

この後に、今日見てきた「慶應義塾の昭和二十年」を記事でご紹介しようと思っていますが、やはり当事者たちが残した文章や資料だけに、比較にならない深みがあったように感じます。この番組を見て、あの戦争を語って欲しくないと思いました。

それにしてもNHKって第二次世界大戦もので、色々と秀逸な番組を作るのに、なんでこんな訳のわからない解釈の番組を作るんでしょうか?ある意味本当に幅が広いなあと思います。それがNHKの良さなのかもしれませんね。色々な意見が存在しているという意味で。

http://www1.nhk.or.jp/fukayomi/maru/2015/150801.html


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