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「夜と霧」を読んで


たまたまお仕事関係の方がご自身のブログでお勧めされていたので、読んでみました。

この本はウィーンで心理学者として活躍していたヴィクトール・E・フランクルが、ユダヤ人であるが故に強制収容所に。そして強い意志と多くの幸運に助けられながら奇跡的に生き延びたのですが、その時の体験を心理学者として分析しながら著した本です。

この本は旧訳版と新訳版がありますが、今回読んだのは新版でした。こちらの方が新版と比較して淡々と書かれていると言われています。

この本を読んで強く感じたのは、良くも悪くも極限化の状況では、その人の本質という物が否応なしに現れてくるというもの。

明日の作業内容もわからず、いつ開放されるかもわからず、家族の行方もわからず、明日の命すらもわからない状況下。そして被収容者の中でも、カポーと呼ばれる被収容者を監視する被収容者の存在。収容所員のひどい仕打ち、現場監督のひどい仕打ち。名前は奪われ、全ては被収容者番号で扱われる状況。これらの全てが、その人個人の体裁・体面といった部分を引きはがし、その人の本質が出されます。

なのでこの本の冒頭にフランクルは

「あちこちたらい回しにされたあげく1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。」

と記述したのでしょう。きれいごとでないその世界を。この表現自体に著者の公平さが現れていると思います。彼はまた違う箇所でこのように述べていますし。

「だれもが遅かれ早かれ生死の分かれ目に立たされるという状況で友だちを優遇した人間に、だれが石を投げる気になるだろう。石を手にするなら、自分がその立場だったらやはりそうしないだろうか、と胸に手を当てて考えてからにするべきだ。」

上記の言葉は、昨今のネット社会(某掲示板もそうですね)、総評論家社会にも通じるように感じます。


この本では極限下で、いろいろな人が登場します。同じ境遇でありながら与えられた特権を使ってサディスティックに振る舞う人、何もかも無くし何に対しても無反応になる人、無慈悲などころか更にいたぶることを楽しむ収容所員、友だちをえこひいきして友だちには具(マメとか)をすくうために下の方からスープをすくう配膳係(これも被収容者です)、私財を投じて被収容者のために薬を買っていた収容所の所長などなど。

それを踏まえ彼は、被収容者の心理はその状況下では強制的に誘導され、免れることの出来ず、影響に屈するしか無かったとの意見に対して実例を挙げながら反論します。

「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」

「人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだと。」

つまり、自らの精神的な部分とは自分自身が決定するものであるということです。

但し精神的な価値とは別に、どうしようもない運命というのがあるのも記しています。

収容所でのガス室送りの話しもそうですし、収容所最後の時もそうです。
ジュネーヴの国際赤十字代表がやってきて、その収容所を保護下に置きました。ところがその日の夜、親衛隊(SS)がトラックで乗り付け、スイスで捕虜交換で自由になれるから早くトラックに乗りなさいと親切に語りかけたので、みんな乗ったが、著者は人数間違いで乗れなかったそうです。この時も憤懣やるかたなかったそうですが、数週間後に見せられた数枚の写真には、トラックに乗せられた彼らがいった収容所で彼らは閉じ込められ、火を放たれ、半ば炭化した死体の山が写っていたとのこと。これを評して

「運命がまたしてもわたしたちを弄んだことを知ったのは、人間が下す決定など、とりわけ生死にかかわる決定など、どんなに信頼のおけないものかを知ったのは、それから数週間もたってからだった」

と著者は述べています。


この2つを合わせて「生きる意味」を考えてみると、自らの成功(なにをもって成功とするかはいろいろあるでしょうが)を目的に生きることよりも、内面的な部分の昇華を目指すことこそが大事なのではと考えさせられます。

それを彼は

「生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」

と言ったのでしょう。

つまり、この本で著者が言いたかったこと、それは下記の言葉だったと思うのです。

「強制収容所の生活が人間の心の奥深いところにぽっかりと深淵を開いたことは疑いない。この深みにも人間らしさを見ることができたのは、驚くべきことだろうか。この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。あらゆる人間には、善と悪をわかつ亀裂が走っており、それはこの心の奥底にまでたっし、強制収容所があばいたこの深淵の底にもたっしていることが、はっきりと見て取れるのだ。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。」

ナチスだからとかユダヤ人だからだとかSSだからだとか関係無く、人間ひとりひとりが問題なのだということなのです。

自分はしっかりとした人間を自分自身の中に作り上げていっているのでしょうか・・・。そう考えると恥ずかしい限りです。

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コメント

生涯の1冊として、この本を推薦しています。
私塾では塾生に3冊の必読書として、
この本と服沢諭吉の「文明論之概略」、丸山真男の「日本の思想」を
挙げています。

何という変換、福沢先生、ごめんなさい

どちらの陣営に属するかによって敵か味方かを決めることを自戒、
事実や真実をもとに解決策を考えていく、
その大切さをこの3冊から教えられます。

野球でいえば慶応の味方か敵か、原子力で言えば、反原発か原発推進か。
そこでは批判を封じられるか、非難のみに終始するか。

因みに「夜と霧」は中学3年、「文明論之概略」は高校3年のとき、「日本の思想」は大学1年のときに出会いました。

文武両道さん

コメントありがとうございます。

多分文武両道さんがご覧になったのは旧版だと思います。新版と比べ、ホロコーストへの説明が多く、文体も格調高かったと聞いておりますので、機会があれば旧版も読んでみようかと思います。

新版で変わったのは、「ユダヤ人が」という表現が増え、「モラル」という言葉が少なくなったとのこと。これは解放当時はユダヤ人が犠牲者という側面だけだったのですが、1970年代になるとイスラエルそのものが周辺諸国との紛争、入植などを引き起こし、ある意味加害者にもなってしまったことからそのようになってしまったからだそうです。

これまた、「ユダヤ人だから」「ナチスだから」というくくりには意味が無いと言うことの裏付けのようなことですね。

今世間では、余りにも立場毎の発言が多すぎるように思います。組織人が多くなってしまったからでしょうか?

今ドラッカーのマネジメントを読んでいるのですが、その中に「20世紀の初めには、お仕事は何ですかと聞いたが、今日ではお勤めはどちらですかと聞く」という一節が出てきます。今の社会の本質をある意味表していると思いました。

大学で教えていたころ、
本を読む輪読会にした初回が「文明論之概略」
続いて「日本の思想」「夜と霧」そして「経済人の終焉」でした。

ユダヤ人あるドラッカーが世界人であろうとした
系譜が読みとれます。

ユダヤ人であるドラッカーがユダヤ人を超えた。
フランクルと同じ普遍性をもっています。

大学と企業を同時退職し、中堅の社会人相手に
同じ順番で輪読会をやると
不思議にも大学での若い人と同じ感想を聞かされ驚きました。

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